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望みを叶える物語

◆好きを仕事に、愛する人を愛しぬく◆幸せなライフスタイルをビジネスにする「あり方・やり方」伝えます。

【陸前高田へ】被災・復興・脱無責任・強くなりたい

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5日間にわたる旅の4日目。

仙台より沖合へ約100km離れた太平洋フェリー上でPCへ向かっている。今感じていることを残すため、取り急ぎ書き留めたいと思う。

 

 

今回は、名古屋〜東京〜仙台〜陸前高田〜気仙沼〜仙台〜名古屋と太平洋側を駆け上がり、すぐさま駆け下りてくるような慌ただしい道程だったが非常に充実した時間だった。

 

そもそも今回の旅の目的は、東京でのある企業との面談だった。ただ、せっかく北上したのだからもっと北までいってみよう!と思い立ち、岩手県・陸前高田まで足を伸ばすことにした。

 

なぜ、陸前高田なのか?

私は、2011年東日本大震災を受けて、友人とともに募金プロジェクトや、震災のために修学旅行が中止となってしまった東北の中学生を名古屋に招待するプロジェクトなどに携わった。しかし、実際現地に赴くことは一度もしておらず、時が経つにつれて、震災自体の存在が自らの生活から消え去りつつあった。そして、それもしょうがないと思っていた。

日々、生きることだけで精一杯だったのだ。

 

積もる違和感〜震災とは何だったのか?〜

私はグルーバル資本主義経済が、現在の人類の「知性」と「倫理」レベルで推進された先に、人類の幸福はないと思っている。個人の欲望を肥大化させ、知らず知らずのうちに利益追求が人間の尊厳よりも優先される世界。あらゆる分野で効率化・均質化がすすみ、個人が自らの生活が成り立つ仕組みを理解しないまま暮らしてしまっている状況。「依存」「無知」「無責任」が蔓延する。その危うさが顕在化したのが、あの震災だったと思う。

 

 では、どうすればいいか?

 

私は、私の言葉でこの問いに対する解は出せていない。ただ、こちらのエントリーの方向性だと思っている。

僕は、「倫理」と 「知性」とだと思っています。

これは、これまでの社会で重視してきた「効率性」と「論理」 に対応するものです。

 

「効率性」に勝る「倫理」というのは、たしかにこっちのほうが効率的だけど、自然環境や社会にとってはよくないよねとか、子供たちのこと考えたらやめたほうがいいよねとか、とどまる所のない効率性の追求をちょうどよいところにとどめるものです。

 

「論理」に勝る「知性」というのは、こうなっているだろう、こうあるべきだ、と頭で漠然と考えているのではなくて、実際にどうなっているのか、まず自ら知るということが第1だということです。僕たちが生きてきた消費社会というのは、「大きなもの」への依存社会であり、ひとつひとつの製造プロセスやメカニズムが完全にブラックボックス化してしまいました。実際どうなっているのか、消費者ひとりひとりが知ることが大切です。

 

「知性」を得るうえで大事になるのは「身体感覚」です。

「大きなものの論理」への依存を断ち切るのは、「一人一人の身体感覚」です。大きなものへの依存社会でたち消えてしまったのは、僕たち一人一人の感性です。大量生産大量消費のマスプロダクト・マスプローションは、一人一人のもの、ことへの感覚を麻痺させ、失わせました。

 

僕たちひとりひとりが真の人間的な知性を取り戻すことができれば、原発原発ゼロだというイデオロギー戦争ではなく、「ごく自然」なところに行き着くのではないかと思うのです。

 

ひとりひとりが、よく人の話を聞く耳をもち、手で素材の良し悪しを感じ、舌で一番体が求めているものを探し、目で本物を見る。人に任せるものは任せても、ものごとが「身体感覚」から離れすぎないことを意識する。そういう生き方、働き方が増えていけば、脱依存、脱無知、脱無責任社会の実現が可能になってくるのではないかと思うのです。

 

3.11から4年、本当に変わらなければいけない僕たち自身の考え方。 - 元外資系コンサルタントがなぜ鎌倉で自給的生活をはじめたか?

 

陸前高田を訪れたのは、私自身が「依存」「無知」「無責任」と向き合うためだった。自分一人が何かできる訳ではないが、自分の生き方を考えるなら、自分が生かされている世界についても考えないといけない。漠然とした危機感があった。

 

陸前高田を訪れて

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目の前に広がっていたのは「フロンティアの開拓」だった。

 

今回、「見たいものだけ見る」ことを避けるため、事前情報は一切いれずに訪れた。私は震災前の街の様子もわからなかった。だから、本当に0から街をつくりあげているのだ。という印象がひしひしと伝わってきた。

これは私の捉え方であるが、そこには被害を悼む悲壮感や、逆に復興への勢いなどは感じられなかった。ただ、淡々と街がつくられていく。そんな感じだ。ドラマではない、日々の生活がそこにはあった。

私は、ただ広がる土地を歩きながら、とにかく多くのものを捉えようとした。自分の5感を解放し、ただ感じたかった。

 

風の音、作業員の声、土の柔らかさ、排気ガスの匂い、波のつくる模様、曇天にゆれる一本松・・・・

 

これからどのような街をつくっていけばいいのだろうか?

何が正しいのか?

何が間違っているのか?

誰にとって?

何の為に?

何を信じれば良い?

 

とめどなくあふれてくる問い。私に答える余裕などない。とにかく考え続けることを要請してくる。「無知」「依存」「無責任」な私が浮き彫りになってくる。

 

でも、絶対に諦めてはいけない。白けてはいけない。自分の生き方も、自分の生きる世界の行方も自分で決めろと、私は私に言い聞かせる。気付いたら5時間歩きっ放しであった。何も答えは出なかった。疑問符の行列が延々と続いていた。でも、一つだけ確かな想いが芽生えた。

 

もっと強くなりたい。もっと自分の生き方に責任をもてるように。

 

まだまだ、これからだ。今は、これだけ。

 

大丈夫。大丈夫。

 

-自分の感受性くらい-

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ