望みを叶える物語

◆人生の主人公として、感動をうみだす◆幸せなライフスタイルをビジネスにする生き方を伝えます。

他人は変えようとする奴は、クシャクシャにしてポイポイすべきだ。

私は、人を変えようとする奴が嫌いだ。心底憎んでいる。そして、そんな奴の一人に自分が成り果てていると思う時は、自分で自分にドロップキックをくらわしたいと思うくらいだ。

「あなたの為を思って・・・」

「お互いのために・・・」

「社会のために・・・」

いつの時代も偽善者は、善良な隣人を装ってやってくる。かの太宰治の著作「人間失格」の中に、このような一節がある。

 「あなたのためを思って」という欺瞞

「しかし、お前の、女楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」

世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、木にそう言われて、ふと、

「世間というのは、君じゃないか」

 という言葉が、舌の先まで出かかって、木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。

(それは世間が、ゆるさない)

(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)

(そんな事をすると、世間からひどいめにうぞ)

(世間じゃない。あなたでしょう?)

(いまに世間から葬られる)

(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

 は、個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗、冷汗」
と言って笑っただけでした。
 けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。

 

「私」という主語で語らずして、他人をコントロールしようとするとんだ卑怯な方法だ。しかし、えてして私たちは他者にこのようなコミュニケーションをとってはいないだろうか?

 

「あなたのことを思って、アドバイスしているのよ!」

「社会からそんなんじゃ認められないから、教えてあげているのよ!」

「世間様から見離されないように、教えてあげているんだぞ!」

「みんな君をそういう風にいっているよ。だから変えた方がいいよ!」

・・・

 

そして、問題が深刻なのは、言っている当人が本当に「私はこの人の為を思って言っている。」と思い込んでいることだ。

誤解を恐れずに言いたい。人を変えようとする奴らを突き動かしている原動力は、自らを縛っている価値観/世界観を自分一人では信じることができない"弱さ"だ。

 

私はそれを信じて生きてきたのに(自分を縛って生きてきたのに)、もしかして違うの?いや、そんなことない!!私が正しいはず!間違っているのは、この人!だから変えないと!このまま許してはだめ!

 

弱さから生まれる恐怖。そこから生まれる怒りだ。自分の弱さを他人に投影しているのだ。自分で自分の感性を認めてあげることができていないから、他人の感性を認めてあげることができないのだ。

 

人にできることって何? 

私はたった一つだと思っている。それは、

愛をもって見守ること。

私たちに人を変える権利も力も元々ないのだ。変わりたい人が変わりやすいように傍にいてあげることだ。変わる方向も、変わる方法も、変わるタイミングも、その人にしか決められない。

 

人は誰しも、自分以外の何かに自分を変えられたくない。まず、今の自分を認めてほしいと思っている。 私だって、あなただって、彼だって。

 

だから、別になにもしてあげなくてもいいと思うんだ。ただ、傍にいてあげれば。いや、傍にいなくたっていい。ただ、いつでもどこでも「今のあなたOK」とサインを出してあげれば。

 

「人を変えたくなったら、自分と向き合おう。」

 

他人の前に、まず自分。

人間は弱いけど大丈夫。いや、弱いから大丈夫。大丈夫。大丈夫。

 

 

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