願いが叶う物語

"本当の自分"を表現したい貴方へ。自由な生き方&ビジネス教えます。

流体としてのコミュニケーション

最近、人と関わることとは?というテーマを深く考えている。いや、考えざるおえないといってもいい。
生活を送る上で、特に問題が生じている訳ではない。しかし、ただ日々を過ごすだけで、どこから身体全体がこわばり、自分と世界との境界線がソリッドになっていることを感じる。
 
私は、孤立を感じている。
 
 
孤独は嫌いではないが、孤立はしたくない。
 
まさにそんなかんじだ。
 
 
試しに、自らのコミュニケーションを観察してみる。
 
 
例えば、何か業務上必要なお願いを同僚にする場合。
 
私の外部と内部では何が起こっているのか?
 
困ったなぁ、嫌な顔をされたらどうしようか。ネガティブな反応が出たらどうしようか。でも、やらなくちゃ。重い腰を上げ、同僚に近づく。距離が近づくにつれ、息が浅くなり、胸のあたりが硬くなるのがわかる。話しかけられる距離までくると、もはや相手が見えているようで実は見えていない。敵意がないことを顕示するように、笑顔をはりつけ、喉元から声を押し出す。定型文となって言葉は、相手に届いたかどうかわからない。相手の顔が一瞬"見える" そこから察するに、特に問題なく受け取ってもらったようだ。少し胸をなでおろす。あとは早速退散しなければならない。抜き足差し足、隙をみせてはいけない。息がつまる。肩がこわばる。笑顔は崩さず。たったったと、自席に戻り、若干胸のあたりの硬さが和らぐ。それと同時に、息苦しさが迫る。うまくコミュニケーションがとれていただろうか?失礼はなかっただろか?嫌われなかっただろうか?自分の思い込みとはわかっていながらも、考えを取り去ることはできない。胸のあたりの硬さはとれない。とにかく一人にならないといけない。トイレにかけこみ、一息つく。やや全身が和らいだ気がした。ふと視界に鏡があった。そこには、もう笑顔などなかった。
 

 

 
ものの2~3分の出来事に、私は消耗する。
私は、他者とつながりたいと思いながら、つながりたい対象をみつけることができていない。
 
相手をただ見る。見続ける。しかし、そこから感じるのは「未知の他者」であり「恐怖」が潜んでいる。避けたい。近づきたくない。
 
つながりたいという思いがなければ、伝えたいこともない。それなのに、聞かなければならない。伝えなければならない状況に、ますます私の胸のあたりは硬くなる。心は凝固し、無機質となる。精密なテープレコーダーのように、ストックした情報をただ上手く出力する。私は一つの機械となった。
 
他者とつながりたいと思いながらも、つながりたい他者をみつけることができない。美しい女性/性的魅力を感じる女性には微かに希望を感じる。これは前のめりな動機だ。しかし、性欲に追従し、身体を重ねあわせたところで、一向につながりは手にはいらない。
 
彼女を見たところで何も浮かばない。遠ざかりたいという思いにはならないが、近づきたいとも思わない。
 
また違ったのか。
 
私は私の言葉を探している。私の心が流体となり、外側へ溶け出し他者へ流れ込むような、そんな言葉を。
 
腹の奥深くから喉元に向かって内蔵を押しのけ、圧力は増し、確かに自分自身から発せられる言葉を求めている。もはや、その時にはそれが他者に届くかなんてことはあまり気にしなくなって、自分を生み出すことができたこと。そのことに歓喜しているのであった。
 
歓喜の瞬間を待ちわびている。
そこには、自分と他者という関係性があるのではなく、ただ全てがある。あるいは全てがない。
 
さらに進もう。もちろん言葉が他者へ届いてくれたらいい。
運良く、体外にあふれた私という流体は、時として他者の流体とも交わる。そこには、なんらかのつながりが生まれる。化学的には結合と呼ぶべきだろうか。
 
フツフツと温度を上げ、私という流体は、ともすれば気体へも変化する。
もともと伝えたかったメッセージはどこまでも希薄になり、もうどうだっていい。
 
ただ、交わりあい溶け出しあし、時間なんてものもなくなればいい。
 
こんな愚かな夢を見ている。

 

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