願いが叶う物語

"本当の自分"を表現したい貴方へ。自由な生き方&ビジネス教えます。

意味・物語を諦めろ。ひたすら強度・密度を追い求めろ。

祖母が逝去した。80歳になる手前。十分に生きたのか、それともまだまだ生きたかったのかはわからない。ただ、見送った側から見れば、まだまだ生きてほしかったと思うし、まだまだ何かを交わすことができたらなと心残りがある。

 

人は、死ぬ間際に走馬灯を見るという。生まれてから積み重ねてきた時間の中で、とっておきのシーンを編集し、早回しで見せてくれる代物だ。

彼女はどんな走馬灯を見たのだろうか?幸せな...いや違う。もっと強度、密度、手応えのあるものだったろうか?そうであることを切に願う。

私が今死んだらどんな走馬灯を見るのだろう?少し想像してみた。驚いた。驚くほど何も出てこない。25年余りの人生を確かに送ってきたのだが、結局つかみとれるものは何があったのだろうか。あまりにも、強度、密度、手応えが希薄なものだった。

私は、それに少し悲しくなり、そして悲しくなることに安堵し、そして虚しくなった。死者を送る時、人はそれぞれ涙を流す。自らの喪失感・欠落感を死者に投影し、カタルシスを得る。それは、ひどく傲慢な行為でありながら、死者を見送るものの唯一の権利だ。

せめて、それくらいは許してほしい。そう願いながら、私たちは泣く。

私は、どんな喪失感・欠落感を彼女に投影したのだろうか?遠い昔の記憶は、もう手元にはたぐり寄せることはできない。でも、とめどなく溢れる想いと、そのメッセージは微かに感じ取ることができた。

 

もっと甘えたかった

 

それは叶わないことを知る。あったはずの可能性を想像し、それが手に入らないことを何度でも想像し、せり上げる絶望を増幅させ、涙へ昇華させる。

 

それくらいはせめて許してほしい。

 

人は、自らの人生に意味・物語を求めてしまう。必然性などない、代替不可能性などない自らの人生を、偽装する「意味・物語」を求めてしまう。

 

誰もがわかっている。虚構の中に、いかに「真実味のある意味・物語を見出せるか?」がポイントだと。

幼い頃の愛情不足から、愛をとめどなく求め、迷走し、その果てに真実の自分に出会う。であるとか、戦地で次々と死んでいく人たちを見て、世界平和に身を捧げる使命をもつ。であるとか、大切な恋人にひどい裏切りを受け、誰も信じることができなくなり、刹那的な人間関係に傷つきながら、命を捧げるに値する愛に出会うであるとか。

映画でも小説でもなくて、自らの人生の点と点を線で結びたがる。

でも、それは虚構であることに気付かねばならない。絶対唯一の自らの物語がある。存在証明がある。と無垢に信じ、虚構の中に自らを溺れさせていってはいけない。

虚構は虚構である。

虚構には「強度」が不足している。

 

強度とは、日々「全ては無意味だけれど、それでもそれなりに生きていける」という手応えだ。

私たちの人生に意味などない。しかし、強度はある。感じることができる。

「虚構の中に人生の意味を求めること」は、「人生の強度をます」ための手段だ。

 

意味を求めるのではなく。強度を求めろ。


誰も理解してくれなかろうが、どこにも居場所がなかろうが、世界は絶望にあふれているように見えようが、自分の存在証明の欠片も見出せなかろうが、全ては無意味だ。そして、私たちが生きていく事自体に無関係だ。

勝手にこの世に生まれ落とされてきた理不尽に対抗するために、強度を求めろ。

 

他者のためでもなく、自分のためでもなく、なんのためでもなく、「無意味だけれど、それなりに生きていけるよ」と言い切ることができる。

 

そんな人間に私はなりたい。なる。

 

(参考)

私たちはどこから来て、どこへ行くのか

 

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