願いが叶う物語

純粋で、透明な、自然【Natural Being】へ還る。

私的レポートからの抜粋

理解してほしい。でも、どうせ理解してくれないだろう。だったら、はじめから...

愛してほしい。でも、どうせ愛してくれないだろう。だったら、はじめから...

生きていたい。でも、どうせ生きることさえままならないだろう。だったら、はじめから...

 

 

「だったら、はじめから」を積み重ね、この世界から少しづつ自分の居場所を消していく。このような葛藤とつきあいながら、人は大人になっていく。それが思春期の発達課題である。しかし、上手くこの課題を乗り越えていくことができず、大人になってしまう人間も多くいる。

 

多分、私もその一人なのかもしれない。

 

だからと言っては何だけれど、先日"両親"にレポートを書いた。どうせ理解することはできないだろうという考えは変わらないが、120%伝える努力をしてきたか?というと疑問符がついたので、一度くらい努力してみようと思ったのだ。

 

記録として、ここにも一部抜粋して残しておきたい。

 

<目次>

1.序文
-主張と意図の分離
-「理解する」こととは
-「向き合う」こととは
2.レポートの目的
3.三人の「私」
4.抑圧された私~記憶にある過程の光景~
5.(備考)祖父母-母の関係性、母-父の関係性
6.承認される対象の変遷
7.人生の意味と強度
8.幻想を諦めること
9.今後の展望
 
 
 

1.序文

-主張と意図の分離
 
このレポートを読んでもらうにあたって、絶対に理解してほしい事があります。それは、
「主張と意図を分離させること」です。
 

例えば、「山田花子は不細工である」と「あなたは不細工である」の二文は、

”他者に対しての評価をし主張した”という構造上は等価です。しかし、人はコミュニケーションを行う上で、
主張の背景にある”意図”を「自分の世界観」で見出そうとします。
その世界観は、自らのコンプレックス、罪悪感、怒り、悲しみなどの感情に大きく依拠しています。
 
心理学では、「投影」という有名な概念があります。
 
自分のことはデブだと全く思っていない人に、「お前はデブだ」と言ったところで、反応しません。
一方で、自分のことを少しでもデブだと思っている人は、「お前はデブだ」と言われると、何かしらの反応を起こします。
(一般的には、対象を攻撃するか?あるいは、自分を攻撃・責めるか?です。)
 
ここで伝えたいことは、私がこれから書くことは、あくまで私が感じてきたこと、考えてきたこと、見ている風景について
書いている"だけ"であり、二人や他の誰かを「傷つけたい」という意図は全くないということです。全くです。
その上で、このレポートを読む中で、何かしら二人の感情などに反応があるとすれば、
それは二人自身が既に持っていた「思考」「感情」に反応しているだけであると思ってもらいたいです。
 
 
-「理解すること」とは
「理解すること」とは、"相手の世界観"を自分の中に映し出して、"相手の世界観"から世界を見ようとすることです。
私たちは元々の遺伝子レベルから異なっており、1秒たりととも同じ時間を積み重ねることはありません。
物理的に、同じ場所・時間に居合わせたところで、結局その時の「私の1秒」と「あなたの1秒」は異なっています。
 
そのため、人が100%理解しあうことなど絶対にできません。誰であろうとこれは変わりません。
もし、そう思った瞬間に、理解とは対極にある場所にいます。
人が理解できるのは、「自分の世界観」のみです。(そもそも自分の世界観がわかっている人自体が非常に少ないのですが)
 
ここで伝えたいこととは、「理解すること」とは、「理解できないことを一個一個確認していくこと」ということです。
どこまで相手の世界観を取り入れようとしたって、全てを取り込むことはできない。
ただ、1mmでも取り込める余地がないか?という可能性を、「取り込めないこと」を確認することで、探っていくのです。
 
このイメージをもって、レポートを読んでもらえたら嬉しいです。
 
-「向き合うこと」とは
「向き合うこと」とは、相手の世界観を肯定もせず否定もせず、そのまま受け止めることです。そこに自分の反応はいりません。
そして、自分の世界観とは全く違う他者の世界観を、「自分の世界観との違い」を確認していくことで、少しづつ理解をすすめる行為です。
 
肯定もせず、否定もせず、受け止める。非常に難解な行為です。非常に難解です。
向き合っているといいながら、ただ自分の世界観を主張しあっている行為というのが、世の中には溢れています。
 
 
 

2.レポートの目的

このレポートは、二人に私の世界観を少しでも受け止めてもらうために書きました。
子は、親に受け止めてもらいたい、受容してもらいたいと願うものです。それが生存戦略だからです。
親がはじめての他者であり、世界です。そこから、年齢を重ねて、触れる社会の範囲が広がる中で、
他者と世界についての概念をひろげていく。柔軟な価値観を形成していきます。
 
しかし、特にここ最近の私は、「一生誰にも理解されないであろう」という不健康な信念に支配されています。
この状況を打開するために、まずそもそもの「両親へ」という形をとりました。
 
まず自分の内部で起こっている心理の動きと、それがなぜ起こっているのか、を紐解いて、
可能な限り、他者へ理解可能な表現をしていく。
 

口頭で伝えるのは、非常に困難な作業ですので、レポートで伝えていこうと思いました。

 

3.三人の「私」

私の中には、3人の「私」がいます。
決して多重人格者であるとかという意味ではなく、感情や思考をする「見方」が3種類あるということです。
 
私1:現在,他者と接しながら社会生活を営んでいる私
私2:10歳程度の抑圧されていた私
私3:「私1.2」を背後から俯瞰している私(このレポート書いている私)
 
私1,2の相互作用によって、実際の言動が表れています。
 
 

4.抑圧された私~記憶にある過程の光景~

(省略)

5.(備考)祖父母-母の関係性、母-父の関係性

(省略)

6.承認される対象の変遷

(省略)

7.人生の意味と強度

少し哲学的な話しになりますが、ある社会学者が人生において「意味」と「強度」という概念を提唱しました。

「意味」というのは、夢や目的や使命や物語性などと、ほぼ同義と考えればOKです。
「強度」というのは、生きる手応え、実感です。
 
そして、この何でもありで、正しいことなんて本当にわからない世の中を、生き抜く為には「意味はないけれど、強度はある」
という態度を身につけるべき。と言っています。
 
もっというと、「人生に意味はないけれど、そこそこ生きていける」という態度です。
逆に、死んでしまう人は「そこそこ生きていけるけど、人生に意味はない」と悟ってしまう人です。
最近の自殺者に多い傾向です。

私は、この世界・人生に絶対的な意味はないと思いながらも、それに依存しようとしていました。

自分の存在の必然性は?
人類の存在の必然性は?
目の前の行動の必然性は?
 
こういった問いに原理的に向き合い続けると、そこに絶対的なものはないのです。
おのおのがそこに都合良い解釈を与えているに過ぎません。それは、人生の「強度」を保つための方法であり、賢いです。
 
一方で、「そんなこと考えなくても、生きていけるじゃん!」という思考停止も賢いです。
 
 
私は、この世界と、私の人生に都合のよい目的・物語を見出そう!と躍起になっていました。
それも、生き抜く為の方法ですが、それに頼り過ぎも行けません。
 
幼い頃のコンプレックスをバネに、幸せな人生を送る。みたいな目的・物語は素敵ですが、
別にそうでなくても生きていっていいという態度も必要です。というかそのくらいに思わないと、生きていけません。
 
私は、強度を求める生き方をしようと思います。
これまで、私は強度が足りませんでした。
 
強度を追い求めることを怠っていたのでしょう。
自分の5感を研ぎすまし、何をするでもなく世界から生きる手応えを得るための方法を模索していこうと思います。
 
 

8.幻想を諦めること

親に完全に受容・承認されること。
社会に受容・承認されること。
恋人・配偶者に受容・承認されること。
 
これは、自分の人生の「強度」を追い求めていった結果として、得るのは良いのですが、目的にした瞬間に辛くなります。
 
幸い、「社会に〜」という文脈では、かなり諦めがついたので、一層、誰かに何かを求めるのではなく、
一人で孤独を抱きしめる覚悟が必要なのかな?と思います。
 
抽象的になってきてしまいましたので、さらっと読んでもらえれば大丈夫です。
 
 

9.今後の展望

(省略)
 
 
 
 
 
誰かに何かを伝えようとする時、はじめて出会う自分がいる。
自分を知るためにも、誰かに向けて文を紡いでみるのもいいかもしれない。
 
 
 

 

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