人と人が出会うこととはどういうことだろうか?普段の生活で、毎日数百人の他人とすれ違っているにも関わらず、そこの「出会い」が起こることは稀だ。
最近、「出会わないこと」が日常となっている中で、いかに「出会うか」というテーマについて考え続けている。
その中で、「誘惑論・実践篇」という一冊の本と出会うことになった。
フランス文学の研究者と、「ナンパ・出会い」の専門家との対談を通じて、「誘惑」とは何か?ひいては、「出会う・関わる」とは何か?を紐解いている作品だ。
元々、下記のエントリーで紹介した『あなたは、なぜ、つながれないのか』の著者である高石さんのブログで言及されていたのがきっかけだ。
備忘録として、いくつか気になったテーマに思うところをまとめてみたいと思う。
Admairable(賞賛される、憧憬される)な存在へ
誘惑者にとって、理解されることよりアドマイアされること、愛することより、愛させることが重要だ。誘惑社が求める讃辞は、I understand youでも、I agree with youでも、I love youですらなく、I adore youあるいは、I admire youなのだ。
では、そのような存在になるにはどんな要素が必要なのか?
ハレとケ、めまい、変性意識、トランス
Admirableとは非日常からしか生まれない。つまり、誘惑する場面設定として「ハレとケ」の「ケ」であることが重要だ。普段、素通りしている可能性に、「遭遇してしまう」非日常感において、admirableは想起される。ナンパはこの点を多いに満たしている。
その非日常から、自動運転モードの相手の身体を揺さぶり、ある種の「めまい」を引き起こす。それは、変性意識とよばれたり、トランスとよばれたりする状態だ。
一説によると、人間の"意識"を司る脳は全体の5%程度であるといわれており、95%は無意識・潜在意識と呼ばれている。
(参考)
めまい、変性意識、トランスというのは、この潜在意識へアクセスがしやすい状態といえる。いわば、AT者の「半クラッチ」状態のようなものだ。
この状態に持ち込むためには、催眠的なテクニックが必要になるのだが、ここは現在勉強中。
メタフレーム/フィクションである自分を演じる
トランスに入れた相手から、Aadmirableを獲得するには、日常をメタ化し、「フィクション」を演じることが必要だ。そもそものはじまりが、非日常であり、誘惑する場合二人の関係はそこから逸することはあってはいけない。
二人の関係を、未来への希望によって担保にしてもいけないし、過去からの運命論によって担保してはいけない。確かにテクニックとしては有効であるし、そして多くの誘惑者を目指すものが、「今度○○へいこうね」的な未来や、「本来出会うはずがなかった二人だから、一つになるべきだ」的な運命へ、現実をフィクション化する。
しかし、そのフィクションは「イマ・ココ」以外に立脚しており、本質的な強度は脆い。
ここに美しい誘惑を目指す上でのジレンマがある。このジレンマを、私自身あまり咀嚼できていない。
目指すべき「誘惑」というのはどのようなものになるのだろうか?
「誘惑の目的は騙すことではありません。誘惑はフィクションと同様”不真面目”を隠しません。それがいわば誘惑のモラルです。誘惑はむやみに傷つけません。誘惑は”遊びで噛む”子ザルたちの戦争ごっこです。加減しながら噛むのです。それが誘惑のやさしさです。愛が”遊び”だからこそ救われる。」
— 笠松 拓哉 (@nekopenguin0705) 2015, 9月 15
その答えは、出会い続ける中に見出せるのかもしれない。
「出会いとは」「誘惑とは」「魅了とは」「ナンパとは」などについて、考えを巡らせたことのある人に、是非おすすめしたい一冊。
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