この連休、大切な友人が家族でウチに泊まりに来た。
お父さんと、お母さんと、1歳8ヶ月の男の子。
僕は、小さい子と、動物と、女の子の可愛さが大好きだ。
その大好きリストに、今日「お母さんの眼差し」が加わった。
お母さんは、子供の声にならない声を聞く。
お母さんは、子供のカタチにならない気持ちを捉える。
お母さんは、子供の朧げな想像を見る。
お母さんの眼差しは、子供を満たし、彼らの世界を拡張し、そこに希望を散りばめる。
お母さんの、眼差しは偉大だ。
ふと、僕は想像してみる。
誰もが、「お母さんの眼差し」で世界と向き合うことができたら何が起こるだろう?
もしかしたら、争いもなくなって、富めるものも貧しいものも、等しく幸せを感じることができるようになるんじゃないか。
それは絶対無理なことなのかな?
いや、そんなことはないと思うんだ。
現に「お母さんの眼差し」はこの世界中に無数に存在している。
でも、この「お母さんの眼差し」は無意識に沸き起こる分、ふとした逆境に影を潜めしまうことがある。
でも、それは今は隠れてしまっているだけ。
いつでも僕たちの中にある。
お母さんの眼差しを一瞬でも受けた僕たちは、それを知っている。
それさえ、想い出すことができれば、そして自分の近くの人へ少しづつ「お母さんの眼差し」を広げることができたら...
愛に満ち溢れた世界を願う。
僕たちは知っている。
僕たちの選択次第で実現できるんだって。
僕たちは、僕たち自身に「お母さんの眼差し」を向けることから始めればいい。
僕たちは、自分自身の声にならない声を聞こうとする。
僕たちは、自分自身のカタチにならない気持ちを捉えようとする。
僕たちは、自分自身の朧げな想像を見ようとする。
僕たちの眼差しは、自分自身を満たし、自分の世界を拡張し、そこに希望を散りばめる。
僕たちは、「お母さんの眼差し」を知っている。
そう、いつでも思い出せる。
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